本の帯頼まれた今野敏さん、困っただろうな…
熱狂的ファンのいる「機動警察パトレイバー」の登場人物たちが去った後の特車二課、新しいメンバーが予告された大規模テロを阻止するまで描いているのですが、大半はサッカーの蘊蓄で、テロの目的も明らかにされないまま。
ファンには不完全燃焼で、サッカーの蘊蓄だけが残る作品だったのではないでしょうか。
これを映像化するとしたら…いや、止めておいた方が良さそうです。
気が向いたジャンルの事を適当に書き散らかしているブログ。 主にアルビレックス新潟を中心としたサッカーの事や、住んでいるがけ下周りの事とか読んだ本、観た映画の感想やいろんなつぶやきまで。
本の帯頼まれた今野敏さん、困っただろうな…
熱狂的ファンのいる「機動警察パトレイバー」の登場人物たちが去った後の特車二課、新しいメンバーが予告された大規模テロを阻止するまで描いているのですが、大半はサッカーの蘊蓄で、テロの目的も明らかにされないまま。
ファンには不完全燃焼で、サッカーの蘊蓄だけが残る作品だったのではないでしょうか。
これを映像化するとしたら…いや、止めておいた方が良さそうです。
映画的と言ってもシナリオ形式でところどころアングル指定などがあるだけで、映画的な飛躍はありません。記述に沿っていて、中には主流の説とは異なる著者の主張が書かれていることはありますが、基本的に実際の古事記の内容に沿ったものだと思います。
この本は「映画的」という言葉で自著である「天皇はどこから来たか」で書かれた古事記に関する自説を展開する場になっています。
分かりやすくと言うなら漫画にもなっていますし、現代語訳や断片的には子供向けのお話(天の岩戸や因幡のしろうさぎ、山彦海彦など)にもなっているので、この本の企画意図は映画と言うより自説の展開なのかなという気がしました。
著者はブローガーで会計士研究家だそう。
複式簿記が生まれたとされる中世ヨーロッパ以降は知識として持っていましたけれど、そういう発想はありませんでした。
なるほど確かにもののやり取りが発生すれば記録が必要になるし、それが顔見知りや世間の狭い範囲なら文字は必要ないだろうし、現代でも文字を持たない民族があると聞いたことがあります。
文字より先に簿記が生まれたのは、簡単に言えば文字は生きる上で当座必要のない記録であり、簿記は豊かな生活をする上では必要であるという事でしょうか。
そして財産が蓄積してくると、正確に把握していなければ生活は破綻します。
それが国家レベルで起きたのがスペインの没落やフランス革命と考えると財産を把握する簿記の重要性がわかります。
なぜ日本経済が停滞しているのかの考察もありますが、社会が成熟し、かつ人口減に至った場合はこれまでの経済指標ではなく別の尺度を使った評価をするべきなのだろうなと思います。
簿記は財産状況を正確に表すツールで、人は利益の最大化を目標として経済活動を行う事で評価されてきましたが、日本のように経済が発展し社会インフラが整った安全で便利な国と、経済が発展途上でいろいろ整備中の国とでは指標が異なるのは当たり前です。今後は、それをどう表現して指標化して一般化していくのかをしていかないと、いたずらに経済格差が拡がって不幸な社会が出来上がるんだろうなと感じます。
うつを患った主人公が拾った猫と暮らすうちに回復していく話。
時折前と繋がらない話が出て次につながるのだけれど、個人の日記ならともかく他人に読ませる文としてはどうなのかと思います。
私小説の部類で、作家というのはこういうことを晒して生活の糧にするのだな、と改めて感じましたが、その加減は本人にしかわからないものでしょう。
生きること、失われること。
それについて考えるきっかけになる本だったと思います。
人が死ぬのはいつか。しばしば問われるテーマです。
作品中で直接的に語られているわけではないのですが、読後に改めて感じました。
肉体が滅んでしまえば消えてしまうけれど、覚えてる人がいれば、その人の記憶の中で生きている。親しい人なら、記憶の中の自分に問いかけてくれることがあるかもしれない。
この作品は、大手企業を辞めて大して知識が有るわけではない映画を学ぶ大学院生となった語り手が教授の紹介で引退した大女優の荷物整理を手伝い、交流していくお話です。
大女優として親友の人生を生きてきた気がするというのは、常に心の中の彼女と会話してきたという事もあるのでしょうか。
芸能人であれば、引退した時点で芸能人としての自分は死んだと感じるかもしれません。
そうであるとすると、死後の自分を見て生きる人生とはどういうものでしょう。
被爆を通して戦争の残酷さを訴えるのは明らかに作者の訴えたいテーマの一つでしょう。
タイトルの”ミス。サンシャイン”は、大女優を賛美する言葉のように感じられますが、実際には被爆者である彼女への差別でもあり、言われた彼女が嫌っていた言葉。
そして、そういった人々に今の地位を与えられていると同時に、何の罪のない親友の命を奪ったように多くの市民の命を奪ったことに対する無反省な態度は、彼女の心に影を落としていたのでしょう。
掘り下げて行けば深いテーマをさらりと重くない語り口で書かれた作品だと思います。
応仁の乱以前の大規模な土一揆を基に、実在した一揆の首謀者と洛中の治安維持を任されたならず者集団の首魁の生きざまを描いた作品。
民が税に苦しみ生活が困窮している点では今の社会状況と似ているでしょうか。
創作した若者の兵法者としての成長をサイドストーリーに、記録に少し名前が出て来るだけで出自も何もわからない人物を描くのは、最期がわかっている点は迷いが少ないのかもしれませんが、物語を史実に現れないものを創作してどのように動かすか。そこは見事に物語になっていました。
今の時代を変えることに命を賭して立ち向かえるか。評判を気にせずに戦えるか。
そう問われています。
福島原発事故の後、そこに暮らした人の話。
そこに描かれるのは、決して報道されることのない世界で、あったかもしれない事とそれを巡る物語なのだけど、それを映画にして劇場で上映できるというのは、日本は世界でも自由な言論が生き残っているのだなと感じました。
一方で、このような創作が生まれる下地として、事故で起こったことについて、戻ってこない人や生活について誰も責任を取っていないと感じる人がいる現実があるのでしょう。
責任を取ることが出来ない。そういう事はあると思います。
しかし被害を受けた人は、それでは納得できないという事も理解出来ます。
憎しみの連鎖を予感させて物語は終わりますが、今の社会は原発事故に限らず責任とれないことを「責任を取る」と言って進めていますが、そのような社会が正常なのか考えさせられます。
2022年から2025年に発表された短編を集めた1冊で、表題作“父の回数”は小説現代2022年5・6月合併号で発表されたもの。中では一番古い作品になります。
いろんな家族のカタチが描かれていて、“父の回数”は現代では少しありがちで少し切ない物語。
そういう言う意味で普遍のカタチではなく、家族のありようも変わって行くのだなと思わせます。
第70回江戸川乱歩賞受賞作(フェイク・マッスル 日野瑛太郎と同時受賞)
発想は面白けど、これでいいのか?という感想でした。
改稿が条件で選ばれたという事ですが、まだまだ推敲の余地が残っていそう。
江戸末期、開港された横浜にある遊郭とその周辺を主な舞台としたミステリーで、設定や仕掛けが面白いという評価だったのでしょう。
純愛がテーマ。
世界最高峰のミステリー文学賞ともいわれる英国推理作家協会主催 ダガー賞を2025年翻訳部門で受賞した作品。
一言でいえばバイオレンスとジェンダーと愛。
単行本の出版は2020年10月。日本ではあまり話題にならなかったと思うが、今のイギリス社会でこういうものが受けるのかという印象だった。
“世界が息を吞んだ最狂のシスター・バイオレンス・アクション!”とあるが、まあ確かにそうなんだけど、それだとちょっと薄っぺらいかなと感じてしまう。
「今の日本国憲法はアメリカの押し付けだから変更しなければならない」という人たちがいます。
確かに太平洋戦争に負け、米軍占領下でつくられた日本国憲法が日本側の自由意志であったとは考えにくい。実際はどのような経過でつくられたのか。
作者はあとがきで「出来るだけ事実に沿うことに務めた」と書いていますが、あくまで小説です。作中で、白洲次郎の妻正子が「見たわけでもないやつが、何をぬかすか!」と夫にビンタをくらわすエピソードが書かれていますが、この本とて同じと心得るべきでしょう。
大切なのは、実際に何がどうなったのか。そして、その評価です。
誰がどう関わったにせよ、未曾有の惨劇を引き起こした反省から出来上がった憲法であり、修正することが出来ても、いまだにそれを修正していない事実から、決して悪いものではなかったというのが今の評価だと言えます。
その後のアジア情勢ではこの憲法のおかげで朝鮮戦争やベトナム戦争に巻き込まれず、軍需景気だけを得ることで高度経済成長を実現したこともまた事実ですし。
最後に作者は主人公に「借りものの国旗で、借りものの憲法を祝うなんてまっぴらだ。」と言わせていますが、「負けるが勝ち」だったんじゃないですかねと思ったりします。
「図書館」について、現在の日本ではポジティブなニュースを聞きません。
聴こえてくるのは経費削減による予算減で、書籍の購入はもちろん、図書館運営の外注化による運営費削減。
その中で「図書館」を冠する書籍がどう受け止められるのか…
この物語の主人公マツリカが成長して「高い塔の魔女」と呼ばれている世界を描いた第1作が発表されたのは2016年。その頃から現実世界の図書館の状況は変わっていません。
もっと言えば、映画化もされメディアミックス展開でも成果を収めた有川浩さんの「図書館戦争」シリーズの時代も図書館は一部の人が利用するもので、立場的には変わらないよね。
むしろ利用する人が少ない図書館だからこそ、このような作品が生まれるのかなと思ったりします。
このお話はマツリカの成長を縦糸に、「高い塔の番人」で用間の王とも呼ばれるマツリカの祖父率いる図書館の活躍で「起こらなかった戦争」を横糸に織り上げられたと言ってよいであよう。
後に祖父の後を継ぎ「高い塔の魔女」と呼ばれるマツリカですが、実際に魔法を使うわけではなく、祖父が未然に戦争を防いだように古今東西の書籍から得た知識や収集した情報をもとに、認められた高い地位と権限で巧みに国内政治や外交問題に助言を与え、場合によっては直接行動する姿を描くもので、いわゆるファンタジーではありません。
知の集積としての図書館と、その知を身に着けて適切に判断が出来ることは、知らない者にとっては実に魔法のように見えるかもしれません。
2015年の「戦場のコックたち」、2018年の「ベルリンは晴れているか」はとても評価が高い作品で、ヨーロッパ戦線やヒトラー統治下のドイツを舞台にしたミステリーで、日本にいてこんな作品を書く人がいるんだと感心したもの。
本作は日本の地方にある街を舞台にしたミステリー仕立てのファンタジーで、前2作品とは全く異なるもの。
どういう順番に組み立てて行ったのかというのは多少気になるけれど、ファンタジーとしてもミステリーとしても魅力を感じなかった。
この作品は閉じたお話だから、これ以上書いても期待は出来ないな。
第172回直木賞受賞作。
同名の短編集を読んだのですが、テーマや設定は面白いけれどなんだか一つ物足りない感じというより、読み手の想像力を掻き立てる作品集でした。
表題作の藍を継ぐ海。
その海をどう捉えるか。どう生きて行くのか。一つの素材から紡がれた物語をどう解釈するか。
アニメ製作のAI利用についての話を聞いてきた。
Qzil.la株式会社という製作会社社長や監督・メインスタッフの話だったけれど、AIを使ったアニメ製作ってイメージとちょっと違い、絵コンテを切る作業を実写でやってAIでアニメに直すとか。
個人的にはセル画を大量に描くパートをAIにするのかと思ったのだけれど、製作スケジュールが押す一番の原因が、売れっ子に仕事が集中する絵コンテの部分だそうで、そこをAI化してスケジュール通りにすることで労働環境を改善して余計な製作費がかからないようにして利益を分配するという話。
実写とアニメに落とすAIパートでそれぞれディレクターを置いて監督が作品イメージをすり合わせて作っていくとか意思統一がされていないと難しそうだなと感じた。
なにしろクリエイターは自己主張してなんぼの部分があるから、ディレクターを複数置いて、その上に監督とか…相性もあるだろうし。
ノーベル文学賞を受賞した時に、著者はコメントを出さなかった。そのことは日本でも小さなニュースになった。
どんな作品なんだろうなと興味を持ったんだけど、そうでもなければ作品を手に取ることはなかっただろうな。
何も言わないことで興味を惹く。ただこの作品は単なるマーケティング手法ではない。作品自体が何も言えなかった者へのオマージュだ。
極私的な散文で、あるいは読む者を息苦しくさせる。
敢えて何か語る事があるだろうかという事だったと思う。
都合の良いファンタジーというか、本を巡る状況と考え方を作者なりに考えて、読者向けに物語にしたという感じでしょうか。
本を巡る状況が厳しいというのは、書店の激減を見ればわかります。
Amazonが日本で書籍の販売を始めた頃を知っていますが、当時、日本の出版業界はネット通販には非協力的でした。日本には再販制度というのがあって、書店は一定数の返本が認められる代わりに注文をしない新刊本の配本を受け入れる仕組みがあり、そのために取次店という問屋さんのような会社を通して本を仕入れることが多かったのですが、Amazonは次第に買い切り(返本しない)することで取次システムを通さず出版社からの直接仕入れを増やしていきます。
再販システムを通さなければ、本は注文されない限りは市場に出ないという事になりますし、そもそもネット通販では本を手に取ることはありません。
Amazonに倣って書籍の通販を始める会社も増え、結果的に町の書店の経営が立ち行かなくなり書店が減少。書店が消滅した地域ではユーザーが本を気軽に手に取って選ぶ機会を奪われてしまいました。
本というものは、書かれているもののほかに装丁や解説、あとがきなどが一体のものとして評価されるもだと思いますが、実施に手に取れなければ作品単体でしか選べません。
選択の機会が奪われるという事は、自由な読書の機会を奪われるという事。他人のおすすめや話題作しか目につかない事態になっています。
その結果生まれた弊害を4つの迷宮に例え、古書店主だった祖父に育てられた引きこもりの少年が言葉を話す猫に導かれ、同級生の少女を巻き込んで自分なりの答えを出して解決していく…
自分は、小説というより出版業の現状を再認識させられる物語として読みました。
端的に言って登場人物は52ヘルツのクジラたちではありません。
作中でも触れられていますが52ヘルツのクジラは太平洋に生息するただ1頭のクジラで、他のクジラとは違う周波数で鳴くためにコミュニケーションが取れない孤独なクジラ。
登場人物たちは外的・内的要因でコミュニケーション不全に追いやられているわけで、作者は単にコミュニケーションが取れないことのメタファーとして52ヘルツのクジラを出しているのでしょう。
だからタイトルから想像される本格的な孤独の話ではなく、人と触れ合い社会性を獲得していこうとするお話です。
敢えてこの物語を読んで52ヘルツのクジラと言えるとしたらアンさんなんだろうなと思います。その声に癒され、励まされ、群れに戻る。その者は群れから離れた仲間を見つけて群れに迎える…そんなイメージでしょうか。映画化されていますが、語り手の貴瑚目線で描いたらありふれた物語になりそう。そんな感じがします。
実際の52ヘルツのクジラは成体にまで成長し生き続けているのですから、孤独と名前を付けなければ生きることに支障はないのかもしれません。
人は、いろんなものに名前を付けて比べたり、自分を持てずに疎外されたりして悩みますが、ただ一人であれば悩むことはない。自分というものをちゃんと持って周りと向き合っていくことが大切なのだろうなと思います。
この世に非ざるものがこの世には存在する。それは、何となく子供の頃から空想していたし、実際そうした物語は世の中に沢山あるし、最近は異世界物のライトノベルやアニメも流行っているとか。
この物語はそうしたものの一つで、物語は少し重たいけれどホラー小説かと言われれば違う気がする。
この本にはタイトル策の「夜市」と「風の古道」の2作品が収録されていて、2作品ともこの世からいなくなることがテーマの一つだと思う。
望んでいたものを望まない手段で手に入れてしまった後の喪失感と罪悪感、無力感であったり、知らずに禁忌を破ってしまった結末だったり…自分の感覚では、ホラーとは理不尽であるからホラーであって、この物語たちはしっかりと納得できる骨格を持っている幻想小説だと思う。
この本には2篇の作品が収録されています。
一篇は「十二月の都大路上下(かけ)る」、もう一篇が「八月の御所グラウンド」。
「十二月~」は高校女子駅伝、「八月の~」は著者お馴染みの京大腐学生を主人公とした早朝草野球のお話。
大雑把に言えば、二篇とも京都の死者と生者が交わるお話ですが。その筋で語れば表題作である「八月の御所グラウンド」がより深く感じるものがあるでしょう。
さて「八月の御所グラウンド」。わたしも草野球のチームに参加していたことがあって、しかもそのチームはこのお話に出てくるような人数をそろえるにも苦労するチームでした。チームメイトの知り合いのホストにヘルプを頼んだこともあるし、人数がいよいよ足りないときはマネージャーの女の子を入れたこともあります。結果はこの物語のようにいくわけがありません。なぜやってていたのかと言えば長年続いているチームに対する義務感と人のつながりでした。個人的には野球愛というより義務感やいろんな人とのつながり。そういったものが大切だったりします。
ここで描かれる野球チームも就職が決まったのに卒業が危うい友人の卒業のため試合のメンバーに駆り出された語り手の経験するファンタジー。「フィールドオブドリームス」という映画がありますが少し通じるものがありますが。
ただ、問題はそこではなく、単位と引き換えにグーたらな学生にそのリーグ戦の優勝を条件にする教授の思いなのかなと感じます。
夏休み真っ最中の八月の早朝に大学生を主力とした野球チームを即席で編成するのは至難の業ですが、他のチームが人数集めに手を打ってくる中、教授が何の手も打たず続けている理由がこの物語の主題でしょう。
そこから何を感じるか。それを感じられるかどうかで物語の味わいは変わります。
リップヴァンウインクルと言えば、「野獣死すべし」という映画で松田優作が刑事の頭に拳銃を突きつけながら(だったと思う)鬼気迫る表情で話をしていました。
その話は。リップヴァンウインクルが飲んだ酒の名前(元の物語には無い)がキーになるのですが、この物語においてリップヴァンウインクルの物語が果たす役割は何なんだろうと考えてしまいました。
敢えて言えば、それまでの人生は長い夢で、夢から覚めて新しい世界が広がるんだという事でしょうか。
何が良くて何が悪いのか。何が本当で何が嘘なのか。
読み終えてそんなことを思ってしまう物語でした。
「コンビニ人間」で芥川賞を受賞した著者の受賞第一作。
人の疎外感のお話。
子供の頃、自分は他の人と違う特殊な人間と考えるのはある話かな。
母親のストレスのはけ口と父親の無関心の中、それを拗らした主人公が自分は魔法少女と言い聞かせてやり過ごして色々な出来事の末に大人になったその先までの物語です。
どうしてそうなる…
とてもあり得ない結末のようですが、考えてみれば戦争、特に一方的な虐殺・民族浄化と言われる行為は似たようなもの。それを行うのは自分と違う生き物だと認識しているからなんでしょうか。同じ人であるはずなのに。
シリーズ30年という事で、“姑獲鳥の夏”の発表からそんなに経つのかと感じましたが、物語の舞台が戦後日本で、社会から失われたり溶け込んで分からなくなる言葉や習俗が一つのテーマになっているため時間は関係ないのだなと思いました。
複数の出来事や謎。それが一つに収束する。ミステリーとそれには直接関わらないけれどその背景を構築するものを語る部分がこれでもかと描かれため、ノベルズ版で2段組み829ページの長編となっていますが、それはこのシリーズではおなじみで、一回ミステリー部分以外を読み飛ばして気に入ったら全体を読み直すという読み方もありだと思います。
求婚者が行方をくらまして、それをを捜す女性。父を殺したという告白を聞いてしまった劇作家。戦前に起きた消えた3体の死体をの謎を追う刑事。一人孤独に亡くなった大叔父の医師の生涯に思いを馳せる姪。そして日光の寺院で見つかった古文書の調査に出向いている京極堂。その周辺の人物が絡み合った出来事の先にどのような結末が待っているのか。
30年前の姑獲鳥の夏の事件で京極堂が関口に言った「この世には不思議なことなど何もないのだよ。」という言葉がやはりここにも。