第172回直木賞受賞作。
同名の短編集を読んだのですが、テーマや設定は面白いけれどなんだか一つ物足りない感じというより、読み手の想像力を掻き立てる作品集でした。
表題作の藍を継ぐ海。
その海をどう捉えるか。どう生きて行くのか。一つの素材から紡がれた物語をどう解釈するか。
気が向いたジャンルの事を適当に書き散らかしているブログ。 主にアルビレックス新潟を中心としたサッカーの事や、住んでいるがけ下周りの事とか読んだ本、観た映画の感想やいろんなつぶやきまで。
第172回直木賞受賞作。
同名の短編集を読んだのですが、テーマや設定は面白いけれどなんだか一つ物足りない感じというより、読み手の想像力を掻き立てる作品集でした。
表題作の藍を継ぐ海。
その海をどう捉えるか。どう生きて行くのか。一つの素材から紡がれた物語をどう解釈するか。
アニメ製作のAI利用についての話を聞いてきた。
Qzil.la株式会社という製作会社社長や監督・メインスタッフの話だったけれど、AIを使ったアニメ製作ってイメージとちょっと違い、絵コンテを切る作業を実写でやってAIでアニメに直すとか。
個人的にはセル画を大量に描くパートをAIにするのかと思ったのだけれど、製作スケジュールが押す一番の原因が、売れっ子に仕事が集中する絵コンテの部分だそうで、そこをAI化してスケジュール通りにすることで労働環境を改善して余計な製作費がかからないようにして利益を分配するという話。
実写とアニメに落とすAIパートでそれぞれディレクターを置いて監督が作品イメージをすり合わせて作っていくとか意思統一がされていないと難しそうだなと感じた。
なにしろクリエイターは自己主張してなんぼの部分があるから、ディレクターを複数置いて、その上に監督とか…相性もあるだろうし。
ノーベル文学賞を受賞した時に、著者はコメントを出さなかった。そのことは日本でも小さなニュースになった。
どんな作品なんだろうなと興味を持ったんだけど、そうでもなければ作品を手に取ることはなかっただろうな。
何も言わないことで興味を惹く。ただこの作品は単なるマーケティング手法ではない。作品自体が何も言えなかった者へのオマージュだ。
極私的な散文で、あるいは読む者を息苦しくさせる。
敢えて何か語る事があるだろうかという事だったと思う。
都合の良いファンタジーというか、本を巡る状況と考え方を作者なりに考えて、読者向けに物語にしたという感じでしょうか。
本を巡る状況が厳しいというのは、書店の激減を見ればわかります。
Amazonが日本で書籍の販売を始めた頃を知っていますが、当時、日本の出版業界はネット通販には非協力的でした。日本には再販制度というのがあって、書店は一定数の返本が認められる代わりに注文をしない新刊本の配本を受け入れる仕組みがあり、そのために取次店という問屋さんのような会社を通して本を仕入れることが多かったのですが、Amazonは次第に買い切り(返本しない)することで取次システムを通さず出版社からの直接仕入れを増やしていきます。
再販システムを通さなければ、本は注文されない限りは市場に出ないという事になりますし、そもそもネット通販では本を手に取ることはありません。
Amazonに倣って書籍の通販を始める会社も増え、結果的に町の書店の経営が立ち行かなくなり書店が減少。書店が消滅した地域ではユーザーが本を気軽に手に取って選ぶ機会を奪われてしまいました。
本というものは、書かれているもののほかに装丁や解説、あとがきなどが一体のものとして評価されるもだと思いますが、実施に手に取れなければ作品単体でしか選べません。
選択の機会が奪われるという事は、自由な読書の機会を奪われるという事。他人のおすすめや話題作しか目につかない事態になっています。
その結果生まれた弊害を4つの迷宮に例え、古書店主だった祖父に育てられた引きこもりの少年が言葉を話す猫に導かれ、同級生の少女を巻き込んで自分なりの答えを出して解決していく…
自分は、小説というより出版業の現状を再認識させられる物語として読みました。
端的に言って登場人物は52ヘルツのクジラたちではありません。
作中でも触れられていますが52ヘルツのクジラは太平洋に生息するただ1頭のクジラで、他のクジラとは違う周波数で鳴くためにコミュニケーションが取れない孤独なクジラ。
登場人物たちは外的・内的要因でコミュニケーション不全に追いやられているわけで、作者は単にコミュニケーションが取れないことのメタファーとして52ヘルツのクジラを出しているのでしょう。
だからタイトルから想像される本格的な孤独の話ではなく、人と触れ合い社会性を獲得していこうとするお話です。
敢えてこの物語を読んで52ヘルツのクジラと言えるとしたらアンさんなんだろうなと思います。その声に癒され、励まされ、群れに戻る。その者は群れから離れた仲間を見つけて群れに迎える…そんなイメージでしょうか。映画化されていますが、語り手の貴瑚目線で描いたらありふれた物語になりそう。そんな感じがします。
実際の52ヘルツのクジラは成体にまで成長し生き続けているのですから、孤独と名前を付けなければ生きることに支障はないのかもしれません。
人は、いろんなものに名前を付けて比べたり、自分を持てずに疎外されたりして悩みますが、ただ一人であれば悩むことはない。自分というものをちゃんと持って周りと向き合っていくことが大切なのだろうなと思います。
この世に非ざるものがこの世には存在する。それは、何となく子供の頃から空想していたし、実際そうした物語は世の中に沢山あるし、最近は異世界物のライトノベルやアニメも流行っているとか。
この物語はそうしたものの一つで、物語は少し重たいけれどホラー小説かと言われれば違う気がする。
この本にはタイトル策の「夜市」と「風の古道」の2作品が収録されていて、2作品ともこの世からいなくなることがテーマの一つだと思う。
望んでいたものを望まない手段で手に入れてしまった後の喪失感と罪悪感、無力感であったり、知らずに禁忌を破ってしまった結末だったり…自分の感覚では、ホラーとは理不尽であるからホラーであって、この物語たちはしっかりと納得できる骨格を持っている幻想小説だと思う。
この本には2篇の作品が収録されています。
一篇は「十二月の都大路上下(かけ)る」、もう一篇が「八月の御所グラウンド」。
「十二月~」は高校女子駅伝、「八月の~」は著者お馴染みの京大腐学生を主人公とした早朝草野球のお話。
大雑把に言えば、二篇とも京都の死者と生者が交わるお話ですが。その筋で語れば表題作である「八月の御所グラウンド」がより深く感じるものがあるでしょう。
さて「八月の御所グラウンド」。わたしも草野球のチームに参加していたことがあって、しかもそのチームはこのお話に出てくるような人数をそろえるにも苦労するチームでした。チームメイトの知り合いのホストにヘルプを頼んだこともあるし、人数がいよいよ足りないときはマネージャーの女の子を入れたこともあります。結果はこの物語のようにいくわけがありません。なぜやってていたのかと言えば長年続いているチームに対する義務感と人のつながりでした。個人的には野球愛というより義務感やいろんな人とのつながり。そういったものが大切だったりします。
ここで描かれる野球チームも就職が決まったのに卒業が危うい友人の卒業のため試合のメンバーに駆り出された語り手の経験するファンタジー。「フィールドオブドリームス」という映画がありますが少し通じるものがありますが。
ただ、問題はそこではなく、単位と引き換えにグーたらな学生にそのリーグ戦の優勝を条件にする教授の思いなのかなと感じます。
夏休み真っ最中の八月の早朝に大学生を主力とした野球チームを即席で編成するのは至難の業ですが、他のチームが人数集めに手を打ってくる中、教授が何の手も打たず続けている理由がこの物語の主題でしょう。
そこから何を感じるか。それを感じられるかどうかで物語の味わいは変わります。
リップヴァンウインクルと言えば、「野獣死すべし」という映画で松田優作が刑事の頭に拳銃を突きつけながら(だったと思う)鬼気迫る表情で話をしていました。
その話は。リップヴァンウインクルが飲んだ酒の名前(元の物語には無い)がキーになるのですが、この物語においてリップヴァンウインクルの物語が果たす役割は何なんだろうと考えてしまいました。
敢えて言えば、それまでの人生は長い夢で、夢から覚めて新しい世界が広がるんだという事でしょうか。
何が良くて何が悪いのか。何が本当で何が嘘なのか。
読み終えてそんなことを思ってしまう物語でした。
「コンビニ人間」で芥川賞を受賞した著者の受賞第一作。
人の疎外感のお話。
子供の頃、自分は他の人と違う特殊な人間と考えるのはある話かな。
母親のストレスのはけ口と父親の無関心の中、それを拗らした主人公が自分は魔法少女と言い聞かせてやり過ごして色々な出来事の末に大人になったその先までの物語です。
どうしてそうなる…
とてもあり得ない結末のようですが、考えてみれば戦争、特に一方的な虐殺・民族浄化と言われる行為は似たようなもの。それを行うのは自分と違う生き物だと認識しているからなんでしょうか。同じ人であるはずなのに。
シリーズ30年という事で、“姑獲鳥の夏”の発表からそんなに経つのかと感じましたが、物語の舞台が戦後日本で、社会から失われたり溶け込んで分からなくなる言葉や習俗が一つのテーマになっているため時間は関係ないのだなと思いました。
複数の出来事や謎。それが一つに収束する。ミステリーとそれには直接関わらないけれどその背景を構築するものを語る部分がこれでもかと描かれため、ノベルズ版で2段組み829ページの長編となっていますが、それはこのシリーズではおなじみで、一回ミステリー部分以外を読み飛ばして気に入ったら全体を読み直すという読み方もありだと思います。
求婚者が行方をくらまして、それをを捜す女性。父を殺したという告白を聞いてしまった劇作家。戦前に起きた消えた3体の死体をの謎を追う刑事。一人孤独に亡くなった大叔父の医師の生涯に思いを馳せる姪。そして日光の寺院で見つかった古文書の調査に出向いている京極堂。その周辺の人物が絡み合った出来事の先にどのような結末が待っているのか。
30年前の姑獲鳥の夏の事件で京極堂が関口に言った「この世には不思議なことなど何もないのだよ。」という言葉がやはりここにも。
「北野武が書き上げた初めてのラブストーリー」という売りで出版時にプロモーションされていたのは覚えています。映画としては「あの夏、いちばん静かな海。」の脚本・監督をしていますからラブストーリーを書くのは初めてでなないわけですが。
今回の映画はご本人の監督ではありませんが、編集(これも別人ですが)も含め、北野監督らしさが出ているとは思います。この作品の編集、北野作品ではありがちなのですが知らない人が観ていたら違和感があるだろうけど、ご本人なら余韻の出し方とかちょっと違うんじゃないかな…
ピントが近く背景をぼかす演出が特徴的です。
原作を読んでいないのですが、セリフの中で違和感があるもの(例えば「家族で海に行って、夕陽を半日見ている」…夕陽はすぐに落ちるし、半日いたら真夜中過ぎになります。)もあり、現場で直すものじゃないかなと感じましたが、原作者に対する遠慮みたいなものがあったのでしょうか。
ロマンチストの作った優しい映画という感想でした。
書いて伝える事が本業の新聞記者である著者が伝える記録は、今がんで闘病している人やその周りの人や家族は知っておいた方が良いだろうなと思います。
自分の身内も著者と同じくらいの年齢でがんが発覚し、2年ほどの闘病で亡くなりましたが、どのような検査があり、それがどのような意味を持つのか。病状の経過や気持ちの変化など、知識が有れば受け止め方や行動も変わっていたでしょう。
人はいずれ死ぬ。その時期の予測がつくものであった場合、どう生きるか。その過程がとても辛いものであったとして、どう受け止めるか。
著者は、自分の死後の準備(それを認める強い意志が必要でしょう)を行う時間があり…だからこそ死の恐怖と向き合う時間が長く、同時に励ましてくれる仲間との絆を感じる事も出来たのだと思いますが、発見から短い時間で通常の生活が送れなくなることもあります。
自分が死ぬことの準備と覚悟は簡単のものではないとぼんやり思っていましたがが、具体的な出来事を読むことで、たとえ今が健康であってもきっちり準備しなければならないという事を再認識しました。
原作は注目の少女漫画でテレビドラマもヒットし、映画化されたもの。
タイトルどおり(原作のタイトルどおりなわけですが)ストーリーはミステリーという形態はとっているものの主題は謎解きではありません。主演を務める菅田将暉さんの演技が映画全体の基調を決めている一種のヒーローものという見方もできますが、主役は彼の発する言葉なのだろうと思います。
彼の常々思っていることは、言われてみれば真っ当な事で、普段考えないことを考えるきっかけになります。この物語のキーワードは、その常々思っていることではありません。誰かが言った言葉を使っているからなのか、最後のリアクションは“そこはそれでいいのかな。エンターテインメント的にはそれでいいのだろうけれど…”と感じました。
映画として全体を見回すと気になったところや、そこはそうはならんだろというところもありますが、ストーリーの流れがよく、助演俳優さんの使い方は贅沢で効率的。メインキャストの方々の演技も良かったと思います。
さらりと観ることが出来る映画でした。
の6作品が入った短編集です。
子宮がなければ書けなさそうな物語かなと唐突に感じました。なんだか、ぬめっとして不思議な読書感があります。
時の流れは直線でなく、5歳の子供も老成したような語りで独特の世界観を語る…
特徴のある挿絵と相まって、不思議な読書体験でした。
キャッチは「彼女にはなぜ、夫ではない<恋人>が必要だったのか?2人の男の間で揺れ動く心と、夫婦の真実が明かされていく衝撃の84分」
観た感想は、いかにもフランス映画っぽいなというものでした。キャッチの言葉は、まあそういう視点で観たらそうなんだろうなと。
正直、映像の撮り方はあまりにも狭くて好みではなかったし、物語を語る上で自明のことであるものを“明かされる真実”に充てているために、ちゃんと描いていれば主人公たちは「それでも人生は続いていく」となるだろうものがドツボに嵌っていくようにしか感じられなくなっています。
一部ネタバレになりますが、不倫相手の犬が嫌いな理由を死後に父親から聞いたら、ただでさえ自責の念があるだろう主人公は自分の行為と重ね合わせて半狂乱になっても不思議ではないけど、そうはならなかった。それでも最後まで死んだ男の事を思っているという、独特の温度感がある女性なんだということなのでしょうか。
明かされるべきは夫婦の真実ではなく、彼女の心の内だったのではないかなと思います。
オフィシャルホームページによると企画の立ち上げはコロナ禍の最中だったそうで、当時はコロナに感染して亡くなったり、才能があり期待されていた役者さんが自ら死を選んだり、撮影もどのように接触感染を防ぐか、映画館は感染対策と安全性のアピールに必死で、製作や配給会社では製作や公開の延期や中止が行われていました。
その中で新しい企画を立ち上げるのは簡単な事ではなかっただろうなと思います。
映画の舞台は尾道で、尾道と言えば小津安二郎監督の「東京物語」の老夫婦の暮す町であり、大林宣彦監督の尾道三部作の舞台でもあります。
この映画のストーリー的には尾道でいいのかなと感じるところがありましたが、その疑問を上回る雰囲気が感じられます。街が映画を呼ぶという事はあるのでしょう。
古き良き人と人間関係、戦争の記憶と爪痕、豆腐作りを絡めた親子と人の情愛。
それら全てを欲張って表現した映画。
主演の藤竜也さんの演技はもちろん、娘を演じる麻生久美子さんも最近多いコメディエンヌ役ではなく今村昌平監督が育てた最後の映画女優と言われた演技力で映画を引っ張ります。
エンディングテーマでエディ藩さん(藤竜也さんは代表曲”横浜ホンキートンク・ブルース”の作詞で、お二方とも横浜在住)の演奏する「9O’clock」がかかりますが、新録ですかね…