物語には始まりがあり、また終わりがあるものです。しかし、本当にそうでしょうか。
それは、物語を語る作者にとっての始まりであり、終わりであるという事ではないでしょうか。わたしは子供の頃、読んだり観たりした物語の続きや違うストーリーを夢想して楽しんでいたことがありますが、いつからか作者の描いた世界の中で満足をし、終了した物語の続きが読みたいななどと思うようになりました。
自分は、いつの間にかそうした気持ちを亡くし、与えられる世界の居心地の良さに浸るようになってたのだな…
物語は作者とは別に語っても良い。そう感じさせられる作品でした。
平家物語には犬王の巻というものはありません。
この物語は、作者が平家物語を読み、犬王という実在の猿楽能の役者の存在に興味を持ち、かくあるべしと想像して描いた物語です。
犬王という人物がいたことは文書に残っていますが、犬王が創った作品は、現在それとわかるものはありません。能の歴史は、本作でも少し触れられている犬王の後に登場した世阿弥が著した風姿花伝など一連の伝書があるため残っているという事がありますから、彼と関りのあるもの以外は分からないということだと思います。
作中で犬王作とされる演目は作者の創作です。様式は後に世阿弥が苦難の末に完成したとされる夢幻能の様式ですし、現代に伝わる能の演目からヒントを得ているもので、世阿弥の能がこの作品に大きな影響を与えていることは間違いないと思います。
犬王は歴史に名を残しましたが、作品は残りませんでした。
歴史に名も存在も残らない多くの者。しかし、そういった者たちがいなければ歴史は進まない。そういうものの代表として、もう一人の主役である琵琶法師となった友魚=友一=友有は創造され、この物語を回していく役割を担ったのだと思います。
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