演出の岡田利規さんは若者言葉で緩いせりふ回しが特徴の演出をされる方だそう。
演出には観客を役に引き込む没入型と、常に劇であることを意識させる異化型があるといいますが、歌舞伎はもともと異化型の極北で、その物語を衣装や言葉を現代風にアレンジ。垣間見える歌舞伎風の振付は、本来は相当の修練が必要なもの。現代の衣装と相まって見え方が細いなと感じましたし、逆にやや現代舞踊風の振付は逆に筋トレのように太いなと。
この劇の演出は、そのような違和感を押し出した動きと抑揚の少ないせりふ回しで観客に判断を任せるという手法なのでしょう。
まず気になったのはセットです。
舞台の上でタイルを模した舞台を作ってあり、その上にもタイルを模したアーチ。
歌舞伎の演目というより、中世ヨーロッパの、破壊され、荒れ果てたモスク跡を舞台に演じられるような舞台セット。アフタートークで、木ノ下さんは「タイルっぽいのは銭湯やプールっぽい。この演目は水に縁があるから。」という趣旨の話をされていたけれど、個人的にはそうは見えませんでしたが、そういう意図だったのか。
次に舞台中央奥に座ったDJ。
確かに歌舞伎も囃子方は舞台の上にいますが、あくまで部隊の端で目立たない存在。生演奏という点では一緒ですが、常に目に入る位置にいる。さらに演者が赤ん坊の泣き声の鳴り物(むしろ鳥の鳴き声みたいでしたが)をするのもその隣という…
衣装は洋服に二本差しでスニーカーの武士に、桜姫の小袖は桜色のロングコートだったりします。
多分、これがこの舞台で一番斬新な部分でしょうが、出番のない役者さんも基本的に舞台からはけないで舞台の端や下に残って寝転んだり椅子に座ったり、持たれたりしながら芝居の進行を見守ります。で、時折大向こうの声をかける…(最初は、変声で何を言っているんだろうと思いましたが)歌舞伎の観客と一体になった舞台を意識したもののようですが、演出からして大向こうの声がかかるような決めはないですし、そういうものとは無縁な演出でしたから、違和感を与えるのが目的だったのかもしれません。
物語をどう解釈するのかというのは、作品を演出する・演じる際に求められる根本だと思いますが、この作品はどのように解釈して演出したのでしょうか。
桜姫の行動をどう解釈するか、物語の導入では前世の因縁ものを感じさせますが、その流れから全く自由な桜姫。ほかのキャラクターはある意味型通り。
この作品は、僧の清玄と、桜姫の運命を変えてしまう釣鐘の権助を同じ役者が演じることで、因縁ものとして成立させようとしているのかもと感じます。
清玄が若い頃に心中を試みて殺してしまった稚児の白菊と瓜二つの桜姫。桜姫は生まれつき片手が開かず、清玄の読経で開いた手から心中を試みた際に白菊に渡した名前の入った香箱のふたが転がり落ちます。
その桜姫に夜這いをかけて無理やり犯した権助。その権助に焦がれている桜姫。
清玄の煩悩の化身が権助であれば因縁ものの出来上がりでしょう。
本来無垢だった白菊の生まれ変わりの桜姫は、清玄と瓜二つの権助に犯され、その権助は頼まれて姫の父親を殺して家宝を奪い、弟まで手にかけている。
清玄は姫との不義密通の濡れ衣を着せられ寺を追放、非人に落とされ、最後は一緒に寺を追放された弟子の手にかかって命を落とす。
全体を俯瞰して観れば、因縁なんてあるのかもしれないけれど、現実の前に無効化する桜姫の女性であるが故の理不尽さに尽きる作品なのだと思います。
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