りゅーとぴあで行われていた能楽講座「能楽師に聞く能の楽しみ」の第3回目。「海人」は世阿弥の“母である海人が我が子の将来のために自らの命をかける様がドラマチックに描かれ、子を思う母の愛情が色濃く感じられる曲目”
能の成立より前の曲で世阿弥が手を入れたと考えられるとか。
出演予定だった大島輝久さんが新型コロナウイルスの濃厚接触者になってしまった(陰性でも待機期間がありますからね)ため欠場。
個人的には面打師の北澤さんのお話に興味があったので行ってみました。
能面を打つ人って、どういう方なのか。
やはり職人さんの世界ですが、面をかぶる人とのコミュニケーションは欠かせないので、頑固職人ではいけないようです。面を打って引き渡し、初演を見るまでが仕事とか。
面を打つ作業自体は室町時代から変わっていないのではないかとか、面を打つ道具は刃物を作ってもらい、柄や本体は自分で自分の体に合う大きさに作るとか。(何しろニーズがないので既製品なんてないという事もあるようです。)
面は裏側も大事というのは、以前とこかで聞いたことがありますが、実際に打つ人と着ける人の口から聞くと重みが違います。
面のお話を興味深く聞くことが出来ました。
シテの佐々木さんに、面を打つのにかかる時間を訊かれて、答えた後に「そのくらいでできるんですか」と突っ込まれて「いや、集中してやればという事で…」と、慌てていたところはコロナが流行していなければ笑いどころだったんでしょうね…
面をシテのお三方が手に持って客席へ見せてくださるのですが、小面(若い女性の面)にあごがあって、しかも割れているのに初めて気づきました。小面は北澤さんが打った泥眼(目に金が入っている、この世ならざる者を表す)の面です。
普段舞っているところを客席から観ていて気にしたことがなかったのですが、面の角度により様々な見え方がするのでしょう。
さて、その竜女の衣装のお話で、鱗柄の衣装は力強さを表現するもの、襟の重ねの色にしても力強さを表現する組み合わせであるという説明がありました。
そういう、約束事が失われた現代では知るところから。言葉も違いますから、より深く味わうにはそういう知識が必要です。
観客も昔の言葉で滔々と謡われるものを理解しつつ見るというのはそれなりのハードルですから、ある意味、教養・ステータスとして観る感じになっていると思います。それはそれでよいのですが、せっかくの物語をもう少し気軽に楽しめないかなとも思います。
日本の伝統文化を継承するには、今生きていない言葉であれば、いかに生かすか。失われた習慣であれば、いかに自然に見せるか。そして、いかにそういうことを学ぶ場を作るかが大切な気がします。
「海人」の原曲は能以前の猿楽。能の完成者とされる世阿弥が、表現を変えているわけで、その時代の演者が時代に合わせて修正するのは、むしろ自然。
理解に知識が必要な古典は古典として残し、より平易な言葉を使った新しい能の形があると広がりが出るのだろうと感じました。
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