この作品は、著者が1946年26歳の頃ナイジェリア労働省のメッセンジャーとして働いていた頃に書かれた処女作品で、1952年にイギリスで出版され注目を集めた作品。
著者が“満足できる仕事でなく、つまらないので暇つぶしでほんの数日で書き上げた。”という事ですが、ありえなくはないけれどこの著者の言うことをどこまで本気でとったらよいのかとも感じます。
“”です・ます“と”だった・である“が混在しする訳者の翻訳は、通常の日本語の読み書きとしては間違いといわれるものですが、英語の原文がブリティッシュ・イングリッシュではなく、ナイジェリアの現地で話される英語で、その味わいを損なわずに日本語に訳されたのだと言います。著者は幼くして父を亡くしたせいもあり学校教育を受けていないため、ちゃんとした英語で書くことが出来なかったという事ではなく、それだけでなく、そもそもイギリスでの出版は考えてもいなかったでしょうし、また内容的にもちゃんとした言葉で語るより的確に表現していると判断され、出版時にも直されなかったのだろうと思います。
ストーリーはハチャメチャで、今でいう中二病が入っている…と表現することが出来ると思います、おそらく元となっている物語は部族に伝わるフォークロアではないかと想像します。主人公が鳥や獣に変身したり姿を消すというのはギリシャ神話など世界各地の神話や伝承にも見られる行為です。それが実際にそのままの意味ではなく、他の行為の隠喩であったり決まり事であったりすることもあるので、物語の中の人にとっては、他の世界に生きる私たちが感じるようなハチャメチャではなく彼らなりの理由があったりするものかもしれません。
「わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。当時は、タカラ貝だけが貨幣として通用していたので、どんなものでも安く手に入り、おまけに父は町一番の大金持ちでした。」という書き出しで、ヤシ酒を飲むしか能のない放蕩息子は父が死に、父がつけてくれたやし酒造りの名人もヤシの木から転落死してしまい、やし酒が切れると訪ねてくる人もいなくなります。そして「この世で死んだ人は、みんなすぐに天国へは行かないで、この世のどこかに住んでいるものだ」という古老の言葉を思い出し(父ではなく)やし酒造りの名人を捜して旅立ちます。
主人公は最初に尋ねた家は神の家で人間は気軽に入ってはいけないと言いますが、同時に自分は神であり、この世のことならなんでもできる‘神々の(父)“だと名乗ります。やし酒飲みの放蕩息子からいきなり神であるという告白で語られる物語は、その後私たちが考える神とは思えないほど情けなく散々な目に遭います。それでもほかの世界でも傑作として評価されるのは、物語の力なのでしょう。
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