日本史や古文の知識が有ると無しでは味わいが違うというか、おそらく持っていなければ途中で挫折するのではないかな。
高校生の頃に一度読んでいるけど、その頃はまさに日本史や古文など勉強の真っ最中であったので、読む分には読めたけれど物語を味わうということは出来なかったと思う。ただ「した した した」という水の垂れる音や「こう こう こう」という魂を呼び戻すための声の表現に興味を惹かれただけだったように思う。何しろ文も読みづらいし、学んだことを結び付けて読むということが出来ず「天皇の后になるのが嫌で逃げたんじゃないか」とか「事情があって自害したのちに家が対面を繕うために物語を作った可能性もある」という物語には全く描かれていない空想をしたものだった。
作者の描いた物語通りのものを味わうにはそこに書かれた文章を読み解く力を身に着け、背景を知る必要があるだろう。
読み解く力は人により一様でなく、経験や嗜好で変わるもの。その時々で感じるものが違うのが当たり前で、得るものがあれば失ったり忘れ去ったりするものもある。瑞々しい気持ちで読むものと、いろんなことを経験して読むもののどちらが優るということはないと思うけれど、作者がどういう景色を見ていたのかを考えることが礼儀。
そういう意味で、ただ文字だけを読み、舞台となった時代を知ることだけでは足りない。
今読み返してみると見える景色が違う。
大津皇子は反乱の疑いをかけられて刑死し、その躯は二上山へ葬られた。そもそも反乱の意思があったかどうかは定かではなく、皇子はその人柄から人々に慕われていたという。皇子が死から目覚めることの理由として一目見た耳面刀自への心残りがあるだろう。耳面刀自は藤原鎌足の娘で藤原南家の郎女の大叔母にあたり、その郎女が耳面刀自と同様に美しく育つとともに熱心に写経をしたことが仏を通して皇子の目覚めをいざなった。また郎女も仏を通じて皇子を感じることが出来たのだと想像させる。
実際には耳面刀自は皇子の父である天武天皇(大津皇子の父)が皇位をめぐって攻め滅ぼした大友皇子(弘文天皇)の后の一人とされ、父の故郷である鹿島へ逃れる途中、九十九里浜で病に没したとているから、この物語のような形で皇子の心に残ることがあるだろうか。
この物語は當間寺の曼荼羅に伝わる中将姫伝説をもとに、姫が當間寺に入り曼荼羅を織るまでの導きを中将伝説の観音様に代えて謀反人として処刑されながらも都の守りとして二上山に埋葬された大津皇子をあて一つの物語を編み上げたものと言えるのだろう。
姫(郎女)一人が観音様に導かれ一夜で素晴らしい曼荼羅を織りあげて生きながら成仏するというのではなく、皇子が介在することで仏の世界と人の世界を少し近づけたものかもしれない。
當間寺の中将姫伝説が物語の中心にあり、その物語を人と近づけるために大津皇子を登場させたのだろうと考えるが、なぜ藤原仲麻呂や大伴家持が登場するのか。
物語の本筋には影響のない二人である。
史実として伝えられる藤原仲麻呂(恵美押勝)は藤原南家の次男として長男である郎女の父(藤原豊成/横佩の大将)を排除して権力を握るが謀反を企てたとして討たれ、大伴家持は武人の家であるため地方の治安維持に力を割かれ、本人も謀反の疑いをかけられるなど、大伴家は政略争いの中で力を失っていく。それぞれが天皇に対する謀反を企てたとして滅ぼされ、あるいはその疑いをかけられ衰退した。
南家に連なる郎女は後ろ盾もなく天皇の后となっても、人望があり皇位継承の有力候補であった大津皇子や耳面刀自と同じ運目になったかもしれない。
権力の恐ろしさ、権力の前での人の無力さというテーマが物語の後ろな流れているのかもしれない。
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