著者の小林茂さんはスチール写真や記録映画のカメラマンであり監督。
記録映画の一つの達成点と思える「阿賀に生きる」のカメラマン。
この本は、著者の生い立ちから語り始められ、記録映画「みんなの季節」の完成まで語られている。
この本を読んで、この人は常に自分の進む道を選んできた人なんだなと思う。そうでなければ、その意志の力がなければ商業的に成り立つことが難しい記録映画に関わり続けることはできない。
社会問題を記録する。それは重要なことだと思うし興味もあるけれど、製作したところで発表の機会が限られているから、そこから収益を上げることは至難の業で、生活の手段とすることは難しい。
以前、劇映画の監督でも奥さんに生活を支えてもらっている人も少なくないと聞いたことがある。
上映される機会が少なく、したがって見る人も少ない映画に出資する投資家はいないから、製作する資金集めも個人や団体頼みとならざるを得ない。
政策委員会方式と言っても劇映画の世界のように映画を製作することでその関連する権利を求める企業が出資するなんてことはない。
記録映画はどちらかというと思想的な背景から関わって組織して資金を集めることが多かったように感じる。そういう人たちは、すでに組織を持っているし、社会を変えようという行動の一つの手段として、映画は身近なものでかつ、達成感を得られるツールだからだろう。
アメリカがハリウッド映画でアメリカ文化を広め、アメリカと対立する国や自国の文化を守ろうとする国は上映を制限する。自国映画の上映比率を定める。かつて、中国や韓国は日本映画の上映を禁止していた。
すべて実際にあったことで、それは映画というものが持った力を示している。
それは自分たちの主張を広める手段としても有効だったからであり、製作の趣旨が一部の層に届けば、何とか資金を得られる可能性はあることを意味している。
製作者としては、そこと折り合いをつけて表現すべきは表現し、必要ないとことは表現しないという姿勢が求められる。そうでなければ単なる宣伝映画になってしまうし、そのような映画になってしまうと瞬間的には人を呼ぶことはできるかもしれないけれど、客観的な記録として将来に評価されなくなり、忘れられてしまうからだ。
カメラを入れるということは好む・好まざるに関わらず一つの視点・意志・選別が入り込んでいるということだ。
そういう意味で、客観的事実というのは存在しない。そこにあるのは、まさに今そこにる物で、意味は見せる側の主観と見る側の立場と意志と知識によって現れるものだろう。
それはスチールでも動画でも同じこと。
映像には主観が入る。
それをわかって作る人と無意識に作る人。
「阿賀に生きる」のように被写体となる人と一緒に暮らしながら長期の撮影を行えば、どうしてもそうした人々に過度な感情移入をしてしまうのだろうけれど、著者はそれをわかって、被写体と向き合って、その気持ちを確かめながら撮るということを心掛けて行っているようだ。
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