2年ほど前から参加している読書会の今月のお題。
決まったのは3月ですが、翌月の4月に「かぐや姫の物語」を撮った高畑勲監督が亡くなり、今週の金曜ロードショーで放送されるとか。
読書会の1週間前なので、当日はきっと映画の話になるんだろうな…(先月の読書会で、そういえば~と振ってしまったし。)
当日はそんなことで時間が押すと思われるので、作成した原稿を上げておきます。
流行語を見ても感じる通り、言葉は時代により変化していきます。
当然現代書かれているものは、普段使っている言葉そのままで理解出来ますが、時代をさかのぼれば理解するどころか読む事すら難しい。読めたとしても、同じ言葉でも現代語と古語では意味や使い方が違うという事もありますし、何を指して言っているのか対象となるものが失われている事もあります。
ある会社の撮影所が取り壊される事になった時に小道具倉庫を見学した事がありますが、そこに私が子供の頃母親の実家で見たことがある小物がありました。使い方は知っていて、どのような場所に置いてあったものかも記憶していますが名称不明で、案内してくれた人に名称を知っているか聞かれたのですが、私も知りませんでした。
名称が分からないという事は小道具として指定しようがない、使われることが無いだろうからという事で処分される予定だと聞きましたから、捨てられてしまったでしょう。
おそらく作れと言われれば、同じようなものは作れますが、素材や質感は再現できないでしょうし、いずれそのようなものがあったこと自体が忘れ去られてしまいます。
何しろ二度と見ることも触れることもないのですから。
言葉も同じことです。
竹取物語は世界最古の長編小説と言われる源氏物語の中で「物語の出で来はじめの親」と書かれているという作者・成立年不明の物語ですが、説話として流布していたものを物語の形で創作を加えて完成したものと考えられています。書かれたのは登場人物(実在の人物もいるとか)から考えて9世紀末から10世紀初めと言われており、先の源氏物語の記述から紫式部は民話と物語の両方を知っていたと考えられます。
現代文学以外は当時の価値観も、それに伴う表現も違いますし、どう感じたかという事も私たちには想像するしかありません。
今日、絵本や昔話として多くの人が読む竹取物語は現代語に訳されたもので、当然現代人の価値観で書かれたものです。
その物語を現在残っている古文書から読み解くという試みは興味深いものと言えます。
岩波新書に収められた「日本語の古典」(山口仲美 著)で指摘される現存する写本(当然印刷技術はない時代ですから異本も多くあるそうですが)から現れるかぐや姫の特徴は
1.漢文訓読調で男のよう固い言葉遣いをするかぐや姫。
2.相手への思いやりに欠けた残酷な面をもっていたかぐや姫。
3.それでも人間界ですごすうちに人間的なあたたかみをもつようになったかぐや姫。
4.月で罪を犯し追放された身であったかぐや姫。
…かぐや姫の印象は変わりますが、物語の骨格は読後感を変えるものではなさそうです。
かぐや姫を描くのに、堤中納言物語の一篇「虫めづる姫君」のように本人の言葉“人々の、花、蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地たづねたるこそ、心ばへをかしけれ。”(みんなは花や蝶を美しいって眺めるけど、ばかばかしい。物事の本当の姿を知ることが楽しいのよ)と毛虫を眺める、変わり者と評されるが、物事の本質を大事にする姫君なんだなと思わせる言葉はありません。かぐや姫の漢文調の言葉遣いだけでこの世界の人ではないことを表現しているのかもしれません。
竹の中から生まれ出た後は翁と媼に育てられて月の世界の住人とは接触がないという物語の中では無理がある気もしますが、月に父母はいるが、どんな人であったか覚えていないという行があるので記憶はあるわけで、そういう設定にしておいた方が面白いかもしれません。
また、求婚者が脱落していく様を見る様子は、多くの人がイメージするファンタジックなお姫様ではなく、坂口安吾の「夜長姫と耳男」(よながひめとみみお)の夜長姫。(個人的には坂口安吾がかぐや姫からイメージしたと言っても不思議に思いません。)
求婚者の名前から作者が権力者を揶揄したと捉える人もいますが、ポイントは天の羽衣を纏うとこの世の憂いが消えてしまうというところなのではないかと思います。
殿上人は会うと憐れんでくれるが、御殿に帰ればきれいさっぱり忘れてしまう。それはどうしようもなく、止められないものだ、と。
羽衣と言えば各地に伝わる羽衣伝説ですが、竹取の翁は羽衣伝説で羽衣を隠して天女と結婚した男という説もあるとか。
そうであれば、天に帰った天女が翁との間に生まれた子供との時間を与えたというストーリーも考えられます。
竹取物語はかぐや姫が主役であるのに、なぜ竹取物語という題名なのか。そう考えれば納得がいきます。
最古の羽衣伝説は風土記逸文とされていますから8世紀には成立しているでしょうし、ひょっとすると竹取物語の前段として語られることがあった可能性もなくは無いかなと空想してしまいます。
1000年以上前に書かれた物語が今でも読み継がれる。生活も変わり、いろいろ失われたものがあったとしても人の心は変わらないものだな。
そう強く感じます。
Wikipedia
『竹取物語』は通称であり、平安時代から室町時代には次のように呼ばれていた
平安時代
『竹取の翁』 (『源氏物語』・絵合巻)
『かぐや姫の物語』 (同・蓬生巻)
鎌倉時代
『竹取』 (『無名草子』)
『たけとり』 (『風葉和歌集』)
室町時代
『竹取翁』 (『河海抄』)
かぐや姫のモデル
『竹取物語』のかぐや姫のモデルとしては、『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている[注釈 39]。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がいる。『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』には開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。
他に賀茂建角身命の子孫で馬岐耳乃命または伊志麻命の娘・賀具夜媛命などがあげられている。
イラン史研究者の孫崎紀子は、百済の善光王や、675年正月に天武天皇に拝謁して以後、行方のわからない*1トカラ人(サーサーン朝ペルシア人)の舎衞女*2とダラ女*3とする説を出している。
注
*1 行方が分からない=その後の記載がない
*2 舎衞はシャーの表音。シャーは王で、舎衞女で王妃
*3 ダラは王の名で、ダラ女は王女
であるとか。
正倉院の宝物の中にはペルシャのものも収められているので無理やりな話ではないかも。
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