2011年6月17日金曜日

【苦役列車】西村賢太 2011 年1月25日 新潮社 刊

第144回芥川賞受賞作。
帯に『平成の私小説作家、ついに登場』とあるけど、昭和の私小説だよね。

性犯罪者の父親を持った子供が、その子供という事で世の中をあきらめながら、自身の怠惰の中で日雇労働者として暮らす様が書かれている。

露悪趣味だなって思う。小説家とか役者とか、自分を全て曝け出さなきゃって言うけど、実際どうなんだろ。
悪いけど、それで?としか思えない世界を、読んでる身としては、覗き趣味で読んでるようなイヤな、というか全く興味ないのに、変なもの見えちゃったよみたいな気分になった。

でも、こんな物語を今の言葉ではない胡散臭い言葉で語って、雰囲気は出るかもしれないが分かんねぇよって言われても文句言えないし、うそ臭せぇって言われても反論する余地も無いと思う。
だって、あんまり中途半端なんだもん。小説としては。

主人公 貫多(芥川龍之介作の【蜘蛛の糸】の主人公カンタダから採ったのかな)の、その後も、そのままというのがちらりと書かれているんだけど、書くならそれなりにしっかりと。その後をしっかり書かないのなら暗示に止めておいた方が広がるものがあるんじゃないだろうか。
狭い世界の生きる方程式を書いてしまえば、「ほう、そんなものか。」で物語は止まってしまうだろう。
その後をしっかり書くというのは、その綻びについて。暗示に止めておけば漠然とした不安を感じさせるような余韻を残せたんだと思う。

で、この本の後ろには【落ちぶれて袖に涙のふりかかる】が収録されている。
それは、40男となり作家となった貫多の姿が描かれている。
それでも生活は苦しく、相変わらずの性格で、一人暮らしなわけだが。
あの苦役列車から、そこまでたどり着く過程が見えないのは、ぼちぼち間を埋めていくつもりなんだろうか。
初出は、
【苦役列車】が「新潮」2010年12月号
【落ちぶれて袖に涙の振りかかる】は同じく「新潮」の2010年11月号
「新潮」の読者は【苦役列車】を読んで、貫多の背負ったものを知ることになったわけだ。
読む順番によって印象も違うんだろうな。

0 件のコメント:

コメントを投稿