安田登(下掛宝生流ワキ方能楽師)、玉川奈々福(浪曲師)、塩高和之(琵琶奏者)、聞き手 木ノ下裕一
【演目】
「夢十夜」より「第一夜」 原作:夏目漱石
「吾輩は猫である」鼠の段 原作:夏目漱石
「破られた約束」 原作:小泉八雲
「夢十夜」より「第一夜」 原作:夏目漱石
たまたま先日参加した読書会で取り上げられた作家が内田百閒で、その師匠という事で夏目漱石の話となり、「夢十夜は、今はあまり読まれないけど発表当時は評判が良かったらしい。当時は見た夢の売り買いなんてことがあったそうだし、そういう背景もあるのでは。」という話を聞いたばかりだった
死にゆく美しい女ともう一度会いたいという主人公が、百年待ってくださいと言われます。言われた通り真珠貝の貝殻で土を掘り、星のかけらを墓標にして苔の上に座ります。女の言うとおり大きな赤い日が東から西へ、東から西へ幾度となく登って沈み、女に騙されたのではないかと思ったところへ気が付くと綺麗な百合の花が咲いて、ああ百年経っていたんだなと気づくという話。
それを玉川奈々福さんの三味線と語り、安田豊さんの舞で演じる。
三味線と語りの心地良いことはもちろん、扇を使って女性の亡骸を埋める。太陽が昇り沈む時間経過を表現する際の足の運び。舞の表現のなんと豊かな事か。
能を学んでいたという漱石先生の文章の匠でもあります。
「吾輩は猫である」鼠の段 原作:夏目漱石
先生の書生に鼠も捕らない役立たずな猫は、自分が譲り受けて食べてしまいましょうと言う話を聞いた猫が一念発起して鼠を捕ろうとする話で、日露戦争で東郷平八郎元帥がロシアのバルチック艦隊を日本海海戦で打ち破った際にバルチック艦隊がどの航路を採るかで悩んだという話から、鼠がどこからやってくるかと思い悩む様、鼠にしてやられる様を、玉川奈々福さんの三味線と語り、塩高和之さんの琵琶、安田登さんの舞で。
琵琶というのはヨーロッパでは弦打楽器と表現されるものという塩高さんの説明がありましたが、曲の演奏だけではなく効果音として用いられています。三味線も同じく弦打楽器で、胴の皮の部分で音を出したりすると玉川さん。
猫を舞う安田さん、何の違和感もありません。
「破られた約束」原作:小泉八雲
小泉八雲は何作品か読んでいるのですが、知らない作品。いくつか日本語訳が出ているそうですが、これは安田さんの訳したものだとか。
愛し合っていた武士とその妻。妻が死の床に就きます。妻に心残りは自分の座っていた場所に誰が座るのかだと言われ、自分は再婚しないという夫。
では、私が無くなったら梅の木の下に埋めてください。そうすれば花の季節は花が眺められ、家も見ていることが出来るでしょうと。しかし、夫は親戚から家を絶やさないのが武士としての務めと責められ新しい妻を娶り、その妻を愛しますが、夫の留守中に新しい妻は亡くなった妻に殺されてしまいます。
「吾輩は猫である」ではコミカルな効果音を出していた琵琶は、いかにも怪談らしい音を出します。
面をつけないワキである安田さんの舞は、それでもその雰囲気を醸し出しています。
この公演は、演目の間に能楽師の安田登さんと聞き手の木ノ下裕一さんの解説が入ったのですが、「吾輩は猫である」の前だったと思うのですが、安田さんが「能を舞うときに演技をしたら師匠に怒られた。能はひたすら型を舞うもので、解釈は観る人の想像力に任せる。」というようなことをおっしゃっていて、この現代語の語りに合わせた舞が表現豊かになって見えた理由がわかりました。
これまで能や狂言を観ると、何を言っているのかわからなくて知識として持っているストーリを追い、動きを追っていました。謡や語りが舞と同時に理解できて、その世界に入っていけなければ型は型としか見えない。謡や語りは肉や衣装。型というのは、それを聴き、理解し、観る人の感情そのまま纏えるように余計な動作を極限にまで削ったものなのだと感じました。
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