2011年10月10日月曜日

辛亥革命100年と日本映画

中華街では今、孫文の写真のポスターが一杯だ。
辛亥革命100年。中華民国建国100年。辛亥革命と言えば、孫文。
孫文は、中華人民共和国、中華民国両方の政府に尊敬されている数少ない人物という事。
その革命運動の最も忠実な継承者であると中華人民共和国の胡錦濤国家主席が発言したそうだが、不勉強な自分としては孫文=国民党=中華民国。
共和制の実現という意味でも、継いでいるのは中華民国なのかなって気はするけど、孫文は当時、民主化をするにしても民衆の啓蒙が必要という段階論を持っていたから、まだ啓蒙している段階なんだよってことか?

今年の夏、東京国立博物館と毎日新聞社が主催で行った特別展「孫文と梅屋庄吉 100年前の中国と日本」は、辛亥革命を日本から支えた梅屋庄吉の写真にスポットをあてていた。
梅屋庄吉と言えば、日本映画草分けの一人。
コメ相場で失敗して故郷である長崎から逃亡。香港で写真店を経営しながら革命を応援していたのがバレてシンガポールへ逃亡。そこでフランスのパテ―商会の出張員からフィルムと映写機を入手して帰国。
自分の変名である正人の頭文字MをつけてMパテ―商会を起こしたのだという。
このMパテ―商会は『“活動写真は下等な興行師がやるものではない、これは社会改良家のやる仕事だ。”とつねに自負し、明治44年には教育映画を大量に輸入して、番組には必ず2,3の教育映画を添える事にした。』(秘録 日本の活動写真 田中純一郎著より)という。
このMパテ―商会が経営的に行き詰り、横田商会、吉沢商会と福宝堂の3社と合併、株式会社化をしたのが日活。
梅屋の資金集めのための苦肉の策という話もあるらしい。
日本の映画会社の経営者が辛亥革命を支援していたというのは、意外な事実だ。
その日活も、来年会社創立100周年を迎える。
まあ、よくも100年もと、梅屋も墓の中で思っているかもしれない。

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