2009年10月25日日曜日

日曜日の朝

日曜日の朝遅く、山手本通り。
駅へ向かう道を歩くと、英語で会話する人たちの群れが歩いている。
彼らは、普段この国にバラバラで暮らしているが、日曜日の礼拝にはきっと祖国に帰った気になるのだろう。
海外に暮らす日本人は、そういう時を持つのだろうか。

宗教心は人を囲い込む。
人を差別化する。
その中から外を見るようになるからだ。
差別化された人は争いを起こす。
宗教心の中で心の拠り所とは、自分の居所の確保で、自分の居所の確保とは、差別化した人たちへの攻撃だ。
もちろん、性質が悪いのは宗教そのものではなく、それを使って差別をする気持ちを助長する教えだけど。
休日、そのあたりをのんびりと歩いていると、彼ら教会の人々に挨拶をされたり、話を聞いて行かないかと言われたりする。
彼ら自身は、きっと気持ちの良い人たちなのだけれど、ぼくは素直に話を聞けない。

サン・テクジュペリの「人間の土地」の中で、アフリカの砂漠に住むイスラム教徒の話が出てくる。
砂漠に住む彼らには、水は代えがたい貴重なものだ。
彼らを帰順させようとするテクジュペリ達フランス人は、族長たちをフランスへ連れてくる。
そこには、涸れることなく水が噴き出す瀑布。
族長たちは、そこを離れる事が出来ない。
「もう少し。水が止まるまで。」
彼らの神は、それを彼等に与えてくれない。
彼らの吝嗇な神なら、いずれ惜しくなって水を止めるに違いないから。
しかし、いくら待っても水は涸れない。
フランス人に、いくら見ていてもしょうがないと促され、彼らは渋々そこから離れる。
族長たちの心は揺れる。
自分たちの神は、これを与えてくれないが、フランス人たちの神は与えている。
自分たちの吝嗇な神様とは何なのか。
自分たちは、何か罪を背負っているのか。
歴史は、彼らの土地を欧米の列強が植民地化していったことを伝えている。
しかし、宗教対立は消えない。

強欲でインチキな資本主義が崩壊し、パラダイムの変換が求められる時、ぼくらの世界は、ちゃんと変えられるのだろうか。
公的資金で救済されなければならない企業や金融機関が存在する世界は、間違っても自由主義とは言えないだろう。
しかし、アメリカでは公的資金に救済された企業経営者が、自由主義の名のもとに高額な報酬を得ているらしい。
世界は、結局どこへ行くのか。
ゲームで作られた資産が、ゲームの崩壊とともに消えてゆくのは当たり前だ。しかし、それが継続する前提で作られたシステム、システムの恩恵を享受してしまった人たち。経済は成長するのが当たり前だと刷り込まれてしまった、ぼくたち。
素直に、ルールが間違っていたのだと認められるだろうか。

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