意外と若い女の子同士で観に来ていたけど、どんなきっかけで来て、どういう感想を持ったんだろ。
そそくさと帰る人がいる一方で、いつまでも椅子に座っている人もいた。
分りあえない者の物語で、それでも、それぞれが、それぞれに存在する意味を持つと言いたかったって事でOK?
主演のペ・ドゥナの演技は素晴らしい。
たどたどしい日本語の感じは、日本人じゃ無理なのかな。とも思うけど、そういう要素がなくても素晴らしい出来だと思う。
人形が心を持ってしまって、その人形の目から世界を見る。
その人形の役割は、性欲処理の代用品。
その目から見た世間は、瑞々しく美しい・・・だけじゃない。
願わくば、もうすこしカットと話を整理して欲しかった。
しかし、この設定・題材(ダッチワイフが心を持って…)を映画にするか?
しかし、この設定・題材(ダッチワイフが心を持って…)を映画にするか?
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返信削除時々、人物写真を撮っていると、自分の知っているその人ではない顔が写っている事がある。
返信削除よく写真写りが良いとか悪いとか言うけど、人の表情はくるくる変わる。
写真は、その一瞬を切り取るものだ。
その写真が別人に見えるというのは、自分の知らない一面を切り取ってしまったという事になる。
そんな時は、その人の知らない一面を見つけたというより、何だか違うものを撮ってしまったなあと思う。
でもね、その人は誰かにはそう見えているかもしれない。そんな時、自分が求めていない写真を撮ってしまうと、失敗したなと思う。
写真は、あるがままを写すものだけれども、ぼくらの観ているものを思っているように写すものではない。
その在り様は、見る人の心の中で決まるものだ。
そんな事は、他の場合にもあるわけで。
まあ、そんな事を思ったのは、月刊シナリオで、シナリオライターの諸先生方が「空気人形」について語っていた事に、少し違和感があったから。
その中で、ラストシーンについて、ごみ捨て場にいるのは、冒頭の人形の方が良かったのではないかという事が、ほぼ全員一致で語られていた。
自分も観終わった後、最初はそう思っていたのだけれど、今思い返すと、あのシーンは映画の中で生きた女優さんがいてよかったんだと思う。
その人形について、初めて観た人には人形にしか見えない。だけど、彼女の動いている様を見たぼくらには、あの女優さんの姿に見える。
そういう解釈で良いんではないかな。
内輪の話ならよいけど、一応専門家がシナリオについて座談会形式で語っているのだから、そういう風に見えないから力不足だという指摘なら、そのように思えたのなら、それはそういう事で良いけど、そもそも、そういう視点が無かったというのが違和感の原因。
あ、それはそれでとても面白く読ませていただきましたが。
この映画に関わった知人は、微妙と言っていたけど、映画の評価なんて、好き嫌いがはっきりするというか、どういう解釈をするか、どういう引き出しを持っているかで変わる。